教育に対する気持ちの話

今の学園に入職してから、毎日本当に幸せに働いています。

もちろん嫌なことも、疲れることも苦手なことも数え切れないほどあるけれど、1度も辞めたいとは思ったことがない。たったの1年しか経ってないんだけれども、普通ならできない経験もたくさん積んだと思っている。

先日、この教室の教育方針を決めるミーティングをスタッフでしていて
自分の中での教育観が知らぬ間に固まっていた、そして変化していたことに気づいた。

結論から書くと
生徒がここを出発する時。
つまり、卒業していく時。次のステージに進む時。私たち大人に対して、「先生、私たちはもう1人でやっていけます。」と宣言できるようになることを目指したい。
極端な話、私たち教育者のことは、その先の場所で、忘れてもいいと思っている。
これは相当難しい。大事な生徒だからこそ、思い入れがあるからこそ、卒業するときに「私、まだ先生といたい。先生たちがいないと、やっていけない。」と言われたら、気持ちは嬉しいものだから。でもだからこそ、生徒という一人の人間が、人間として「自走」できるような人間になってほしい。
「忘れてもいい」と言ったけれど、正確に表現すると「記憶に溶け込む」のだと思う。
確かに、中学校生活での思い出、ここでの頑張りは、生徒の中で消えることは無い。自立していくからこそ、ここでの経験が、これからの生徒の人間としての真ん中に、「溶け込む」。はっきり覚えていなくても、経験が生徒の自立に繋がっていく。それが「忘れてもいい」の本質だと思う。
卒業するとき、ここでの経験を胸に、自信をつけて、「先生」のことは忘れるくらいの勢いで、自立して、自走していってほしい。

「自立」のために、何ができるか、1番のそれは「見守り」だと思う。
何も始まらないそこには、着火剤として火をつけに行く。何かが回り出した時、それを「放任」するのではなく、「見守」る。脱線することもある、そのときに正しく軌道に戻すだけ。困ったらもちろん、大人ができることをする。正しく走り出した時、それはもう成功で、自立へ向かっていったのだと思う。
これの繰り返しで、教育は成立する(もちろん私の中での話)
教科学習でも、コミュニケーションでも、全てにおいて共通することで
授業を受けている時間、その空間を離れても、自分で目標へと走ることができる力
それを身につけてもらうための教育、それが私が目指したい教育。

ちなみに、冒頭に書いた「変化」なのですが
私は塾講師時代、卒業していく生徒に対して、「寂しい、大丈夫かな」なんて気持ちしかほぼ抱けていなかったのです。
そんな中、3月に生徒が卒業したとき。すごく寂しかったのは変わらないけれど、なんだか「おー、頑張れー」という気持ちになったのは、多分、私の中での教育観が1歩先に進んだからだと思う。
昨年1年間の教育の成果もあり、生徒たちはなんだかみんな、「次いきまーす!寂しいしここにいたいけど!でも頑張りまーす!」て感じで卒業して行った。それを見てとてもとても嬉しくなった。このまま私の事なんて忘れて前進してくれ!とすら思った。そういうことです。
今年度も、そんな教育をめざしていきたい。
「自立」とそのための「自走」。
そしてそのための「見守り」

そんなこと言ってますけど、今日も生徒たち「高校まだ始まらなくてー!!」とか言いながら、始業初日に遊びに来て、とても楽しかった。(笑)忘れていいけど、それでも忘れずに、ここでの楽しさを大切に、ここにたまに帰ってきてくれること、且つしっかり自立してること。そんな生徒たちで私は幸せものですね。

「先生とのツーショ、ずっとロック画面で、変えられない。みんなに自慢してるんです☺️」て話してくれた子もいた、ちょっと泣きそうだったけど必死に耐えた(笑)

明日は新学期2日目、明日も笑顔で生徒を迎える、よし、頑張ります。